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延寿院

東京里山墓苑に隣接するお寺、日蓮宗延寿院と住職のご紹介です。

住職ごあいさつ

樹木葬 東京里山墓苑 代表
延寿院住職 及川一晋よりごあいさつ

及川一晋

延寿院住職・長光山本立寺住職・NPO法人ロータスプロジェクト代表・東京里山墓苑代表 ほか

僧侶の道を本格的に歩み始めてから20年以上の月日が経ちました。 その道が正しかったのか、あるいは間違っているのではないかを日々自問自答しながらも、正しいであろうと判断できるのは、自らが大きな歴史の上に立っているということをどれほど自覚できるか、そして今立っているこの場にかかわってくれている先輩諸兄や同輩等、そして僧侶である私を信頼し食わせてくれている檀信徒、そして日々生活を共にしている家族(妻と4人の男の子)の話に耳をかたむけることができるからだと思っています。

昭和 42 年、八王子市本立寺に生まれた私は、以降高校を卒業するまで本立寺さまでお世話になりました。当時本立寺は私の父が住職でしたが、父の他に常に 2~3 人の方が修行をしていました。中にはベトナム難民と言われたベトナム人僧侶の方がいたりスリランカから来た南方の僧服を着たお坊さまがいたりと、母や兄姉妹と常に大家族で、母はお寺のことお檀家さんのことはもちろん、そうやって修行している方々のお世話に奔走しており、自分たち家族の暮らしを二の次にせざるをえない様子でした。

境内は割と広く大きな木が繁り、とは言っても子供の目で見てであって、昭和 20 年 8 月 1日の八王子大空襲で全山灰燼に帰したわけですからそれは戦後に植えた欅や公孫樹であったのですが、その境内で兄や修行に来ているお坊さんとキャッチボールをし、また近所の子供達との遊び場にもなっていました。戦後建てたバラックと呼んでいた木造住宅(足付きでブルーフィルムのかかった白黒テレビも置いてありました)があった程ですから、周囲の住宅地も未舗装で雨が降ればグチャグチャでした。下水も完備されずドッポンといわれる便所で汲取りのバキュームカーが来るような状態でしたからなんとなく臭うわけです。

そんな当時の小学校は5クラスもあって、早朝から校庭は陣取り合戦でした。学校まで歩いて3分の私はよくドッヂボールの線を足で引いてボールに座り、朝一番で仲間が来るのを待っていたものでした。学校の先生からは、田舎のことですからお寺のお坊ちゃんといった感じで待遇がよく、逆にそのことが嫌であったように思い返されます。同級生と草野球をやり、小学校高学年からはサッカーを始めて高校まで続けました。東京代表の選考選手にもなりました。特に高校時代の練習はきつく、この時に限界まで体を鍛えたことが今にいたるまでのフィジカルの基礎になっていると思います。またそう会うこともありませんが、その時の仲間が心の支えでもあります。

私の祖父は平成4年3月に亡くなるまで新宿区常円寺の住職をしていました。日蓮宗僧侶の最高位である大僧正にもなり、身延山のお役や立正大学の理事長や京都にある本山の貫首を勤めるなど、戦後の宗門をリードした一人であると思われます。そんなおじいちゃんに可愛がられた孫でしたので、よく祖父にともなわれて身延山や日蓮宗宗務院などに鞄持ちで行きました。狭い寺の世界ですから、今でも「あなたのお祖父様には大変お世話になりましたよ」と言われること度々で、こちらが恐縮しています。子供の頃、京王線に乗って八王子から新宿まで行くのですが、新宿駅に電車が着いたとき、「常円寺~ 常円寺~」と大きな声で言って親に恥ずかしい思いをさせたことをぼんやりですが覚えています。

父には、私が大学を卒業して正式に僧侶になる時に師匠になっていただきました。パーリ語という原始仏教や上座部仏教の経典に使われている言語を研究しています。本立寺から常円寺、そして千葉県多古町の本山日本寺、さらに松戸市の本山本土寺と転々としました。それぞれの立場でも新たに事業を起こすということはほとんどしませんでしたが、ただ父がいるとそこに集う人が自然に和やかになる、という様子を折にふれて垣間見ました。とても真似のできないことです。喜寿を過ぎてもなお盛んに八王子の寓居で研究に没頭し、昨年は『パーリ仏教辞典』が日本翻訳文化賞を受賞しました。

私は平成8年1月末より延寿院の住職になりました。以降15年が経ちます。 全く初めての土地に来て、お寺の歴史もお檀家さんの一人も知らず、というところからの出発は大変勉強になりました。周囲を散策してみれば分かるのですが、これほど素晴らしい所もそうそうありません。ここで生まれた者でないだけに、良いことと不足していることに気づけたのだと思っています。 現在は新宿常円寺の執事長を兼職していますが、都鄙のお寺の在り様の違いを感じることで、今回皆さまに提案する樹木葬墓苑の草案が私の中にできてきたのだと思います。

私は理念を具現化する意味での代表であり、初期のフィールドを提供するお寺・延寿院の住職であります。お釈迦様は「世界は素晴らしい」と言われました。世界とは人間のためだけにあるのではありません。全ての生命には消長があり有限でありますが、同一種の生命の中ではつながりが続くかぎりは燈火が消えるということはありません。しかしただ一種だけで過ごせるかといえばそれは不可能です。世界とは、つながっているからすばらしいのです。現代社会では「環境」「災害」「自死」「貧困」など様々な問題があります。私たちはこれらを一つの問題として扱ってまいります。それは人間の問題だからです。日々変化し、新たに起きる問題を根本から見つめ、そして解決していきます。その為の具体的な場を太古から人間が自然と共生してきた里山に求め、そこを人間の安住の地とすることであらためて生を見つめなおす機会となり、傲慢ではなく謙虚に生きることとなり、その行為がその周りの方々をさらに幸せにすることとなるはずだと信じています。私たちは今ある社会の課題をつみ残さず、一つ一つを着実に解決していきながら絶対幸福空間を創造してまいります。

延寿院について

~ 里山日和 ~
ふと、穏やかな気持ちに帰りたいと思った時
延寿院は門をひらき、いつでもあたたかくお迎えします

新宿から中央道で約60分に位置する延寿院は、八王子北部、北浅川を望む丘陵地に佇む日蓮宗のお寺です。付近は里山の風情を色濃く残した自然豊かな場所で、春には花見、夏には川遊び、秋には紅葉狩り、そして冬には美しい雪景を楽しめます。

本堂

寺院の中心であり、本尊様をお祀りすると同時に、様々な修法・法要を行う場所でもあります。内陣には、本尊や日蓮聖人像が安置されています。外陣は、礼拝をするためにある静謐な空間です。

庫裡

自然環境や地産地消にこだわり、素材は多摩産の木材を使用して建築されました。豊かな住宅を作ろうとする住まい塾の活動に現住職(及川)が共感し、設計から建築までを依頼しました。庫裡とは、寺院の台所にあたる建物であり、住職や家族が住む場所のことです。

休憩室

参拝に訪れた方のほか、どなたでもご利用になれる開放的なスペースです。外光溢れる空間でお弁当を広げたり、読書をするなどしてお寛ぎいただくことができます。

東京里山墓苑の事務局もこちらの施設内にあります。

客殿

大広間と小間からなる客殿は、お檀家の法事・待合・会食等に利用されています。
仏閣の普請は、お檀家による多額の浄財の喜捨(寄進)により支えられており、お檀家各人の信仰心の賜物とも言えます。

お檀家専用墓

宗教法人延寿院が運営管理する檀家専用のお墓です。お檀家とは宗派に沿って仏事儀式(葬儀、法要、供養など)を執り行い、お布施、護持会費、寄進などを通じてお寺を信仰的、経済的に支えている人のことです。

東京里山墓苑

里山墓苑(会員制樹木葬型墓地/花暦・森羅、無縁墓/燈、ペット共同墓/フォレスト)は、墓地認可申請を受けた延寿院敷地内の一画にあります。
事務局が相談受付及び運営管理をおこないます。

駐車場

お寺の正面に車4台分の駐車スペースがあり、正面をすぎて15mほど進んだところに車10台ほどが停められる比較的大きな駐車スペースがあります。こちらからは、小路を通って本堂へ、森の遊歩道を抜けて里山墓苑へと繋がっています。

延寿院の歴史

日蓮宗延壽院は享保年間(1716~35年)に白山指ヶ谷町蓮華寺の塔頭(たっちゅう:山内の一子院)として創立しました。以来私(及川 一晋)で三十一代の住職(看坊職)、二百七十年以上の歴史を有するのですが、私の前三代は寺井姓のご住職が続きました。明治維新の中で排仏毀釈(はいぶつきしゃく)と言われる仏教排斥があり、僧侶の還俗(げんぞく)や寺院堂宇・仏像の破壊が行われました。当院も少なからずその影響を受け、住職が定まらない時期も長くあったようです。そのような状況から再興したのが寺井存妙、大雲、明道の各歴代住職でした。特に先代の寺井明道住職が就任した昭和二十七年は戦中の空襲による延焼防止の為の建物引倒しにより、当院の寺宝一切は雑司ヶ谷宝城寺へ疎開していて、昭和三十一年になりようやく旧地白山にお堂を再建しました。それから十年も経たずに白山通り拡幅の為に立退きの話となり、移転先を探さなければならなくなりました。そしてさまざまなご縁があり、昭和四十二年、現在地に移転再興と成りました。最大の功労者が明道住職であるのは間違いないところですが、お檀家各人のご協力なしには、成し遂げられなかったことでしょう。